ムジカ・エテルナ社で扱っている、近藤礼隆の《Green World》の解説でも述べたが、西洋音楽には、自然にインスピレーションを受けて作曲された作品や、自然そのものを描き出すことを試みた作品が多数存在する。もちろん、吹奏楽の作品でも、宇宙や自然を描いた作品が少なくない。ムジカ・エテルナ社ではお馴染みの作曲家、浦木裕太の《緑の使》も、自然を描いた作品のうちのひとつである。
浦木によれば、本作は元々吹奏楽のための作品ではなく、ピアノ四重奏のために作曲されたものだと言う。しかし、本作《緑の使》の吹奏楽版を聴くと、そんなことは微塵も感じさせないほど、吹奏楽のための作品として、完結していることに驚く。
冒頭、低音楽器群がなんとも神秘的な雰囲気の音群を奏する。これは5度音程と4度音程を堆積させた和音で、古くは中世の教会音楽の中で好んで使用され、C.ドビュッシー以降は、特定の調を感じさせない浮遊感を得るために使用された音の重なりである。なぜ、中世の教会音楽では5度や4度の音程が好んで使用されたかと言うと、それが「完全な音程」であったからである。つまり、私たち人間が手を入れていない、まさに「大自然」の中にある音を表現すべく、浦木は冒頭にこの神秘的な音群を使用したのである。G.マーラーが、かの有名な《交響曲第1番「巨人」》の第1楽章冒頭に、「Langsam. Schleppend. Wie ein Naturlaut(ゆっくりと引きずるように、自然音の音にように)」と記し、そこに書かれた音楽が、4度音程を中心としたものであることが思い起こされる。《緑の使》も、作品全体に渡って4度音程が重要な役割を果たすことになる。
いくつかの音群が提示された後、曲は「Misterioso(神秘的に)」と指示が与えられた主部へと進む。主部では、木管楽器群とマリンバによって、4度音程を多く含んだ動機が連綿と紡がれてゆく。その中から、様々な旋律が浮かんでは消えてゆきながら、徐々に主部冒頭の動機が強められ、ついには全奏で動機が奏される。この部分は――おそらく浦木の意図したことではないだろうが――インドネシアの「ガムラン」で聴かれる響きと似た音響空間が創り出されている。その後は、またも動機を背景にちらつかせながら、様々な旋律が交錯してゆく。
中間部は、主部とは対照的にF-DurとDes-Durという明確な2つの調の中で展開される。主部が(一応f-Mollとd-Mollという枠組みはあるが)、調を明確に感じさせない作りだったのは、「自然」という私たち人類の知性の範囲外にあるものを表現していたためであろう。そう考えてみれば、中間部は私たち人類の存在を表現したものと考えることもできるのかもしれない。ともかくも「Affettuoso(深い愛情をもって)」と指示された中間部では、序奏や主部の雰囲気からは思いつきもしないような、美しい平野が広がる。
主部冒頭の動機が再び現れると、すぐに後半の主部に突入する。後半の主部ではシンコペーションによってリズムの断層が生まれ、前半とは異なった響きが創り出されているのが特徴的。中間部を思わせる感傷的な旋律でクライマックスを築くものの、最後はf-Mollの主和音の上に、4度堆積の和音が置かれ、神秘的な森の中へと響きが収束してゆく。
本作は、日本語では《緑の使》と題されているが、英題は《Messenger from the Nature》。つまり、直訳すれば《自然からの使者》である。自然の中から生まれてくる音に耳を傾けてみると、私たちが普段の生活の中では決して感じることがない音が聴こえてくる。そんな音に耳を傾け、「自然の使者」となるべくして創り上げられたのが、本作《緑の使》である。(石原勇太郎)